浦上 政宗

Add: apaboka9 - Date: 2020-12-02 15:53:17 - Views: 4773 - Clicks: 340

そして兄政宗に代わって、浦上氏の多くの家臣は宗景に従うようになり、「備前国中大抵は宗景にしたがひ敵する者すくなし」という有様となった。 一方、政宗は播州室津に在城し、永禄 七年(1564)、その子清宗のために黒田孝高の娘を娶った。. 浦上政宗; 時代: 戦国時代: 生誕: 不詳(1520年代? 播磨国室津城主。浦上村宗の嫡男。浦上宗景の兄。幼名は虎満丸。通称は与四郎。掃部助。 生年は不詳であるが、天文5年(1536)には未だ幼名を名乗っていたことが知られている。. 浦上誠宗(うらがみ・なりむね ? ~ 1567)とは、播磨国の戦国武将である。別名・景宗、清宗、忠宗。読みは「あきむね」ともされる。 浦上政宗の三男。子に浦上久松丸がいる。父と兄・清宗が赤松政秀により襲撃を受けて討死したため家督を継ぐ。兄の結婚式なので当然出席はしていたと思われており、赤松政秀の弟・平井祐利を討ち取りながら難を逃れたと思われる。黒田職隆の娘を娶ったが、妻が清宗に嫁ぐはずの志織だったのか、志織の妹だったのかはよく分からない。(大河ドラマ『軍師官兵衛』では兄嫁は職隆の養女として兄に嫁ぎ、婚礼当日に死亡したと描かれた。) 浦上 政宗 勢力を拡大していくが、これを危惧した叔父・宗景により家臣・江見河原源五郎により暗殺された。この時嫁は実家へと逃れた。子・久松丸はこの前後に誕生したとされている。. 浦上政宗 関連項目 浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、播磨国・備前国の戦国大名。浦上村宗の敗死後、家督を相続したが、尼子氏への対応を巡って備前で独立した弟浦上宗景との抗争に敗れた。.

政宗・清宗父子は討死した。しかし黒田職隆の娘は辛くもこの難を逃れ、後に、浦上政宗の 浦上 政宗 次男である誠宗に嫁いだ。この夫妻は男子を1人生み、久松丸といった。 一方、天神山城の浦上宗景はこの状況を見て、浦上政宗系の浦上氏を滅ぼす好機だと思い、. 備前・美作での抗争が一段落付いた永禄12年(1569年)、宗景は播磨西部への侵攻を開始する。名目の上ではかつての主家筋であった赤松晴政・則房親子、それに播磨の有力国人小寺政職らの救援を掲げていたが、一方で宗景の真の狙いは兄の遺領を吸収し、勢力伸長を続けていた赤松政秀を討つ事にあった。同時期には尼子再興軍の尼子勝久への支援や、大友宗麟との同盟を通じて、毛利氏との対立姿勢もさらに強めていった。 ここまでは順調に見えた宗景の思惑であったが、一方で丁度この年は足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たしてもおり、苦境に立たされた政秀は義昭・信長に援軍を要請。これを受けて池田勝正・別所安治らの援軍が派遣され、その攻撃に浦上軍は苦戦を強いられることとなる。 そしてこれを好機と見たのか、宇喜多直家も密かに信長と内通し、宗景への反旗を翻すに至った。窮地に立たされたかに見えた宗景であったが、直家にとっての誤算は政秀が小寺家臣の黒田職隆・孝高親子に手痛い敗北を喫した(青山・土器山の戦い)事、そして織田からの援軍が中央の情勢不安定などを理由に撤兵した事であった。宗景は反転攻勢により11月に政秀を降伏させると、龍野城を始めとする政秀の所領を手中に収め、自身の優位を確立させた。孤立した直家もこれ以上の反抗を断念し宗景に降伏し、これをもって西播磨を巡る一連の抗争はひとまずの結着を見た。. 永禄6年(1563年)、長らく対立していた兄の政宗と和解。これにより備前国内での不安要素が解消された事を受け、同年のうちに三村氏や毛利氏と断交、戦国大名として本格的に自立を果たした。 その翌年、兄・政宗とその嫡男の清宗が、播磨龍野の赤松政秀の奇襲に遭い討死したのを横目に、三村氏との戦いに専念した宗景は三村家親の暗殺を経て明善寺の戦いで勝利を収め、三村・毛利両氏のの勢力を美作国内より駆逐せしめている。ここでも宇喜多直家が総大将として、華々しい活躍を見せたのは言うまでもない。 そして永禄10年(1567年)、政宗の遺児・誠宗を暗殺し浦上氏の実質的な棟梁となると、次いで領国で専横を振う松田元輝親子を直家に命じて討滅。これにより瀬戸内海の児島を除く備前全域と、美作東南部へと浦上氏の勢力は拡大する事となった。 しかしこの一連の勢力拡大の過程において、直家が松田氏の旧領・家臣の一部などを取り込む事で備前への影響力を増大させており、またそもそも宗景との関係も家臣というよりはあくまで「同盟相手」に近い独立した勢力であった事が、その後の浦上氏に深刻な影を差す事となるのである。. 浦上忠宗(うらがみ・ただむね 生没年不詳)とは、播磨国の戦国武将である。 浦上政宗の長男。叔父・宗景が派遣した刺客により暗殺されたという。ただ、この件については弟・誠宗の事跡と被る上に誠宗の別名に「忠宗」があるため、実際としては混同されたのやもしれない。. 経歴 兄との対立. 浦上成宗; 浦上政宗 - 村宗の長男。 浦上清宗; 浦上誠宗; 浦上直宗; 浦上国秀; 浦上玉堂; 浦上春琴; 主要家臣.

永禄元年(1558年)、前述した毛利との和睦を進める一方で、同時期に小寺政職が赤松義祐(晴政嫡男)を擁してクーデターを起こすとこれに加担、晴政を家督の座から追放せしめている。しかし敗れた晴政も赤松氏一門・赤松政秀の元に身を寄せ、結果として赤松の惣領家の分裂という新たな火種を生んだ。 一方で長らく対立していた弟・宗景とは、永禄6年(1563年)に和睦が成立。さらに小寺氏配下の黒田職隆との縁組を通じて勢力の立て直しを目論む。ところがその次男・清宗と職隆の娘(志織、実娘ではなく養女とも)の婚礼が執り行われる最中、赤松政秀の軍勢により居城の室山城を急襲され、政宗も清宗らと共に討ち取られてしまった。時に永禄7年1月11日(1564年2月23日)の事であった。 長男の忠宗もこれに先立って政宗の死後、辛くも難を逃れた三男・誠宗がその後を継いで勢力拡大に向けて動くも、その実力を恐れた叔父・宗景によって永禄10年(1567年)に暗殺されている。さらにその遺児である久松丸(直宗)も小寺氏の元を経て、宇喜多直家により対宗景の旗印として担ぎ上げられた末に殺害されたと伝わっており、一時隆盛を極めていた浦上宗家もここに断絶の憂き目に遭う事となった。. 浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、備前国の戦国大名。浦上村宗の長男で浦上宗景の兄。ー 生涯 -家督相続享禄4年(1531年)、父・村宗が摂津天王寺で戦死して. 浦上家討伐の際に配下になる可能性があるが、実際に使われる機会は少ない。同じ浦上家家臣の宇喜多氏より能力値が低いためだ。 全国で、「援軍で政宗送るから!. 浦上政宗 参考文献 今井尭ほか編 『日本史総覧』3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。全国書誌番号:84023599。isbn。ncid.

浦上政宗の孫。三郎九郎誠宗の子。浦上宗景滅亡のキーマンとなった少年だが、謎だらけの人物である。 永禄十年(1567)六月、浦上宗景は「武略」をめぐらせ、兄政宗の後継者誠宗. 「信長の野望」(PC)シリーズにおける浦上政宗の能力一覧。 8作品に登場。当初は村宗が戦死した時は成人していたものと考えられていた。覇王伝・天翔記()、将星録~蒼天録()と年老いた人間として描かれていた。だが、近年は幼少期であったことが反映されている。() 弟より能力は嵐世記以降は一回り下となっている。. 浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、播磨国・備前国の戦国大名。 浦上 政宗 浦上村宗の敗死後、家督を相続したが、尼子氏への対応を巡って備前で独立した弟浦上宗景との抗争に敗れた。. ) 死没: 永禄7年1月11日(1564年 2月23日) 改名: 虎満丸(幼名)、政宗: 別名: 与四郎: 戒名: 実厳祐真禅定門: 官位: 帯刀左衛門尉、掃部助、美作守: 氏族: 浦上氏: 父母: 父:浦上村宗: 兄弟: 政宗、宗景: 子: 忠宗. 1531年、浦上家を相続。 尼子家との関係を巡り、弟の浦上宗景と対立した。 この戦いは、1563年まで続く。 この後、政宗は黒田家との関係強化のため、子の浦上清宗に、黒田職隆の娘と婚礼させる。. 浦上 政宗 まもなくして宗景は毛利との戦いに向けての準備を進めていく。一度は謀反を企てた直家を許し再度同盟を結ぶと、前出の尼子勝久や美作の豪族・三浦貞広ら反毛利勢力への支援を続ける傍ら、豊後の大友宗麟や阿波などに勢力を有していた三好義継とも同盟を締結し、その縁を通じて当時毛利氏との関係が悪化していた能島水軍の村上武吉にも接触を図る。 そして元亀2年(1571年)、宗景は満を持して三村領・児島への侵攻を開始する。児島は瀬戸内海における海運の要衝の一つであると同時に、それまで備前国内で唯一浦上氏の手の及ばなかった地でもあった。この動きに対し毛利氏は小早川隆景を総大将とした軍勢を派遣するが、宗景は毛利軍との直接対決を回避し、能島水軍の蜂起を利用してその動きを封じる一方、宇喜多直家も三村氏と戦端を開いて後方攪乱に及ぶなど、事前の準備を最大限に生かす形で毛利軍にとって不利な情勢を構築していった。 已む無く隆景は全軍での進攻を断念し、分隊による児島への上陸を試みるが、待ち受けていた浦上本隊と篠原長房(三好家臣)の連合軍による攻撃の前に壊滅した。間の悪い事に、この戦いの最中に毛利元就が死去し、父の死の報せを受けた隆景は児島救援の任を断念、安芸への退却を余儀なくされたのである。 智将・小早川隆景を向こうに回して見事な戦いぶりを示した宗景であったが、最大の目的であった児島制圧は遂に果たせずに終わった。東美作に勢力を有していた後藤勝基の離反、それに北九州での大友氏との抗争に区切りを付けた毛利氏の東進がその最大の理由であった。已む無く宗景は足利義昭と織田信長の仲介の元、毛利氏との和睦を図り、元亀3年(1572年)秋にこれを締結するに至っている。. 1531年に父・村宗が大物崩れで自害に追い込まれると、幼少の身で家督を継ぐ。一族の浦上国秀の後見を1538年くらいまで受けたという。当初は父の仇ということもあり赤松晴政と激しく対立するが、1537年に尼子晴久が山陽道攻めを開始してくると晴政と和睦して共同で対抗する。しかし、尼子軍の攻めは凄まじく、備前を抜かれた上に1539年には龍野城を落とされ、晴政と共に堺へと逃れた。 1540年ごろに主君・晴政が12代将軍・足利義晴より偏諱を賜って政祐から改名すると、元服して晴政より偏諱を受けて政宗と名乗った。1542年に播磨に復帰すると、1544年までに播磨と備前を完全奪還に成功した。この功もあり筆頭宿老の地位を得て赤松家中で絶大な権力を掌握した。そしてのちに赤松氏から独立することとなった。 1551年、恐らく大寧寺の変が起きた直後だと思われるが、尼子氏との関係について弟・宗景と対立し、浦上氏は2つに分かれてしまった。情勢は弟に分があり、旧主・晴政にも攻め込まれ四面楚歌状態となるが、味方勢力との連携で辛うじてこれを防いだ。のちに晴政を追放して赤松義祐(晴政の子)を当主に据えることに成功するが、晴政が赤松政秀の下へと逃れたために新たな火種が生まれてしまう。 1563年に宗景と和睦し、ここに来て勢力の建て直しの機会がうまれた。播磨の有力豪族である小寺政職の家臣である黒田職隆の娘を嫡男・清宗に娶らせることで小寺氏との連携を強化させようと企んだ。翌年正月に婚礼がとりおこなわれたが、婚礼の最中に赤松政秀に襲われて清宗と共に討死してしまった。. 浦上政宗 浦上宗景 系図: 浦上宗茂 うらかみ むねしげ 生没年未詳.

浦上政宗と天神山城 (備前国) · 続きを見る 浦上 政宗 ». 浦上のほうだけど」と言う一発ネタでその存在感をアピールするチャンスが. 翌天正元年(1573年)、信長の計らいで別所長治と和解。またこの席で信長より朱印状を与えられ、備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められる。これはかつての守護職に相当する地位を得た事を意味し、既に実質的に赤松氏を凌ぐ勢力を有していた浦上氏は、これにより名目上でも赤松氏の上位に立つ事ともなった。 かくして浦上氏の最盛期を現出する事となった宗景だが、一方でこの朱印状は小寺・別所といった、浦上氏の勢力基盤外である東播磨を治める国人らまでをも浦上の下に置く格好となってしまい、彼らの反感を買う事となってしまった。 この思わぬ対立を好機と見たのが宇喜多直家であった。直家は毛利氏との連携や美作の国人らへの調略によって勢力を固めると、天正2年(1574年)3月に2度目の反旗を翻した。事前の工作もあって緒戦こそ優勢であった宇喜多方であったが、宗景もまた三村氏や三浦氏との連携や、国人らへの引き留め工作を通じて結束を強化、宇喜多方の攻勢を凌いで膠着状態に持ち込んだ。 その後11月に入るとしばらくは休戦状態に入るも、この間直家は密かに播磨の小寺政職と通じ、当時小寺氏に預けられていた浦上久松丸(誠宗の遺児)の身柄を引き取ると、これを浦上氏の正統な当主として擁立し、宗景討伐の大義名分を獲得している。 そして翌天正3年(1575年)4月、直家は久松丸を奉じて再挙。宇喜多氏を支援していた毛利氏が迅速な動きで三村氏を滅ぼし、三浦氏との連絡路も断たれるなど、今度は宗景にとって終始不利な形で戦局が展開。浦上方についていた国人の裏切りも続発し、本拠である天神山城にて籠城する外なくなってしまった。 そして半年後の同年9月、明石行雄(明石全登の父)ら重臣の多くも宗景を見限り城の一角を占拠。これにより天神山城は陥落し、宗景は宇喜多軍の包囲を掻い潜って備前からの退去を余儀なくされた。. 政宗はその村宗の長男に当たり、幼名を虎満丸という。かつては父・村宗が死去した時点で既に成人していたというのが通説とされていたが、近年の研究から1520年代の生まれであり、この時点では未だ幼年であったと考えられている。 父の死を受け、虎満丸は幼少の身ながら家督を相続し、当初の数年間は一族の浦上国秀の後見を受けた。前述の経緯から父の仇に当たる主君・政祐とは当初より激しく対立し、西播磨の国人らと共に度々抗争に及んでいたが、天文6年(1537年)に出雲の尼子詮久(晴久)が山陽道への侵攻を開始すると、政祐と和睦しこれに対抗した。 しかし尼子方へ転じた国人衆の裏切りに遭い、敗れた虎満丸と政祐は一時堺へと逃れ雌伏を余儀なくされる。天文9年(1540年)には政祐が将軍・足利義晴から偏諱を受けて晴政に改名、これに伴い虎満丸も晴政より一字を拝領する形で政宗と名乗るようになった。 やがて吉田郡山城の戦いと前後して、播磨より尼子軍が撤退すると、幕府の助力を得て天文11年(1542年)に播磨へと復帰し、その後2年がかりで播磨・備前の支配権を回復するに至る。その過程で赤松家中の指揮権を占めるようになった政宗は、戦後は筆頭家老に昇格し晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなど、家中における権力と存在感をさらに強めていった。 一方で予てより浦上氏寄りであった備前の松田氏、それに税所氏らとの縁組を通じ、播磨だけでなく備前での勢力の強化と、主家からの独立への基礎を固めていく事となる。. 浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、播磨国・備前国の戦国大名。 浦上村宗の敗死後、家督を相続したが、尼子氏への対応を巡って備前で独立した弟浦上宗景との抗争に敗れた。. 浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、備前国の戦国大名。通称与四郎、帯刀左衛門尉、のち美作守。 通称与四郎、帯刀左衛門尉、のち美作守。 浦上村宗 の長男で 浦上宗景 の兄。. 政宗横死後、浦上惣領家は三男の誠宗が継承した。 だが、誠宗も永禄十年(1567)五月、浦上宗景の「武略」にかかって暗殺され、政宗の死からわずか三年で浦上氏嫡流は滅亡してしまった。.

これは、浦上政宗の子・浦上清宗と黒田職隆の娘(養女とも?)との婚儀でした。 しかし、1564年1月、室山城にて婚礼を行っている宴席を、 赤松政秀 が奇襲して兄・浦上政宗の親子は殺害されました。. 浦上 清宗(うらがみ きよむね)は、戦国時代の武将。. See full list on dic. 浦上政宗は播磨の 黒田職隆 (黒田官兵衛 の父)と縁組して再起を図ったが、1564年1月、黒田職隆の娘と子の浦上清宗の婚礼の最中(婚礼当日の夜とも?)に、 赤松政秀 の奇襲を受けて浦上政宗・浦上清宗は親子ともに横死し、黒田職隆の娘も命を落としている。. 浦上政宗が尼子氏と同盟を結んだことで、兄弟仲が悪くなり。 1554年(天文23)2月、浦上宗景は兄と義絶し、天神山城を築いて出ていく。 毛利軍は備前に侵攻し、政宗と姻戚関係にある松田氏を攻撃して宗景をバックアップ。. 浦上氏は元々播磨の赤松氏の有力家臣の一つであり、浦上則宗の代には赤松政則をその幼少の頃より支え、守護代や侍所所司代を務めるなど家中でも重きをなしていた。しかし15世紀末に政則に代わって赤松義村が赤松氏の家督を継ぐと、勢力伸長著しい浦上氏を次第に警戒し出すようになり、時の浦上氏当主・浦上村宗(則宗の姪孫)を家中の政務から外したり、他の宿老との軋轢を理由に出仕を差し止めるなど、あからさまな冷遇に及ぶようになった。 この事を不服とした村宗は自領にて蜂起、義村に真っ向から反旗を翻した。度重なる武力闘争の末、主君・義村を圧倒した村宗は、その嫡子の政祐を傀儡の当主として据え、家中の実権を掌握。またその後も復権を狙った義村を幽閉の末暗殺に及んだ他、自らが当主に据えた政祐でさえも美作に追いやった事もあるなど、赤松家中において村宗はさらなる専横を振るい続けたのである。 享禄年間に入ると、村宗は細川氏の内部抗争に絡んで前管領・細川高国を支援し、これと対立する細川六郎(晴元)らと干戈を交えていた。ところが享禄4年(1531年)、摂津中嶋での合戦で思わぬ敗北を喫し、村宗も敢え無く討死してしまう(大物崩れ)。村宗らの援軍として参戦しながらも、親子二代に亘る遺恨を晴らすべく六郎側と内通していた主君・政祐の裏切りによるものであった。. 浦上 政宗 ここに、浦上政宗・清宗父子、黒田職隆の娘は赤松政秀の手勢によって討ち取られてしまう。 急遽浦上家は政宗の次男・誠宗が継ぐこととなる。 「 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄7 | |  ̄ ̄ ̄――― ̄ ̄ ∨.

浦上氏にとって転機となったのは天文20年(1551年)、尼子晴久による2度目の備前侵攻であった。この時兄の政宗が尼子氏に従属すべきと決し、尼子だけでなく金川城主・松田元輝らと同盟を結ぶ中、宗景はその方針に異を唱え、尼子と敵対する安芸の毛利元就や、三村家親を初めとする備中衆と結んでこれに対抗姿勢を示した。 両者の対立は当初膠着状態にあったが、宗景方は天神山城や新庄山城などで勝利を重ね、更には政宗方に与していた砥石城主・宇喜多(浮田)国定を討ち取るなど次第に優位を確立していった。政宗方は尼子氏の支援を背景になおも抵抗を続けるも、尼子晴久の急死によってそれも当てに出来なくなった上、主筋の赤松晴政とも対立しさらに勢力を大きく削られてしまう。これに伴い、宗景は備前の支配権を獲得するに至ったのである。 とはいえ、それでもまだ政治面では毛利氏からの介入を受ける立場に甘んじており、美作においても当地に勢力を伸ばしつつあった三村家親とは次第に険悪になるなど、宗景の置かれた立場は決して盤石とは言い難いものであった。また相当弱体化したとはいえ、備前国内には兄・政宗の勢力も未だ健在であった。 この間、宗景傘下の国人衆の中で急速に頭角を現しつつあったのが宇喜多直家であり、美作を巡る三村氏との抗争でも中心的な役割を担った他、弘治2年(1559年)には浦上家中で権勢をふるっていた島村盛実を、宗景の命により誅殺している。. 寺坂頼我 野々田奏 神田陸人 高崎寿希也 清水天規 横山統威 浦上拓也 boys and men 研究生 北川せつら 中原聡太 米谷恭輔 三隅一輝 松岡拳紀介 佐藤匠 boys and men エリア研究生 名古屋:石田侑也 尾関楓茉 篠ヶ谷歩夢 鈴木政宗 古川流唯. 浦上政宗は 携帯電話について多くの洞察を示しており、 携帯用ミニの分野での浦上政宗の言動は世間の関心を集めている。 この分野における浦上政宗は「いっぱい良いお店がありますがわりと知られていません」という言葉とともに語られることが多く.

浦上政宗 浦上宗景 系図: 浦上久松丸 うらかみ ひさまつまる 生没年未詳. 島村盛実; 中山信正; 宇喜多能家; 宇喜多興家; 参考文献 『備前 浦上氏の研究』(1986年刊、新人物往来社、浦上元著)- 浦上成宗の子孫による研究書。. 浦上清宗(うらがみ・きよむね ? ~ 1564)とは、播磨国の戦国武将である。 浦上政宗の次男。兄・忠宗の死で嫡男として扱われ、父より期待される。黒田職隆の娘・志織を娶り室津浦上氏の地盤を強固にしようと父が企むが、婚礼当日に赤松政秀の襲撃を受けて父共々討死した。 ※たつの市では「志織姫」として名が伝わっているので表記させていただきました。現在室津ではこの「志織姫の悲劇」の一件もあり、1564年よりずっと8月に雛祭りが行われているそうです。. 浦上政宗の三男。 父・ 浦上政宗 と兄・ 清宗 の死後、家臣である 江見河原源五郎 らに 室津城 主に擁立される。 また兄の室になるはずだった 黒田職隆 の娘 1 を娶り、 久松丸 を儲けた。. 浦上前史 浦上則宗 浦上村宗 浦上政宗 浦上宗景 系図: 浦上秀宗 うらかみ ひでむね 生没年未詳. 備前より逃れた宗景だったが当然このままでいる訳もなく、その後信長傘下にあった荒木村重の支援を得て宇喜多端城を奪還、当地より復権に向けた動きに乗り出す事となる。備前国内にも坪井氏や馬場氏などといった浦上旧臣、それに笹部勘次郎(茶臼山城主)ら反宇喜多の独立勢力が未だ存在しており、宗景はこれらとの連携を強化する一方で天正5年(1577年)までに度々信長に謁見、浦上氏再興への支援を取り付けようとするも不首尾に終わっている。 已む無く宗景は自力での再興を選択し、翌天正6年(1578年)には前出の浦上旧臣らや一族の浦上秀宗を備前幸島にて蜂起させると共に自らも出陣、これにより一時的ながら天神山城も奪還せしめている。しかし宗景らの反攻もここまでが限界だったようで、僅か数か月後の天正7年(1579年)春までには宇喜多軍によって浦上派の勢力は備前国内より一掃され、宗景の備前復帰は遂に果たせぬまま終わった。 備前復帰に向けた動きが潰えるとともに、宗景もまた歴史の表舞台からは姿を消す事となった。その晩年を詳しく伝える資料の存在は今のところ確認されておらず、宗景がいつどこで没したかも定かではないが、江戸期に成立した『天神山記』によれば伝承の域を出ぬものの、黒田長政の誘いで筑前に渡った後当地にて出家、70~80代で没するまで余生を送ったとの記述が残されている。またこの他にも宗景の子である成宗の子孫が、紆余曲折を経て備前に戻り土着したとも伝わっている。. ない、ない。.

浦上政宗(うらがみ・まさむね) ?~1566. 浦上前史 浦上則宗 浦上村宗 浦上政宗 浦上宗景 系図: 浦上氏の家臣団は、のちに宇喜多氏に仕えた者を除いては本に紹介されることも少なく、ほとんど一般に知られていないと思います。. 浦上政宗 浦上政宗の概要 ナビゲーションに移動検索に移動この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。. ①天守台②本丸③二の丸石垣④西の丸を望む⑤眺望 訪問日:年7月 所在地:岡山県倉敷市 遠藤秀清は弟・俊通とともに播磨室山城主・浦上政宗に仕えていたが.

浦上政宗の次男として誕生。『備前軍記』によると、永禄7年(1564年)1月11日、黒田職隆の娘を室に迎える婚礼当日に置塩城主・赤松晴政 の攻撃をうけ室山城にて父・政宗と共に討死した。. 浦上政宗は 尼子氏 、 松田氏 と結び、 弟は 毛利氏 と結び、備前国は二つに分かれて争うことになるが、 弟に度々敗れ、 晴政 にも攻められ浦上政宗の勢力はみるみる衰退。. 浦上氏は元々播磨守護の赤松氏に仕え、備中の守護代を務めるなど有力家臣として重きをなしていた。しかし16世紀初頭に赤松義村が赤松氏の当主となるや、赤松家中で俄かに冷遇を受けるようになった浦上村宗は主君への謀反を決意。度重なる武力衝突の末に義村を降し、戦国大名としての第一歩を踏み出していた。宗景はその村宗の次男に当たる。 ところが享禄4年(1531年)、室町幕府の有力者である細川氏の内部抗争に絡み、管領・細川高国を支援していた父・村宗が、高国と対立する細川六郎(晴元)との戦いの最中に摂津・天王寺にて討死してしまう(大物崩れ)。この村宗の討死の引鉄となったのは、村宗らの援軍として参陣しながらも、その村宗によって父を謀殺され、自身もまた当主でありながら村宗の傀儡に甘んじていた、赤松政祐(晴政)の裏切りであった。 この事態を受け、浦上氏は未だ幼少であった村宗の嫡男・虎満丸(浦上政宗)が家督を継ぎ、父の仇である政祐との対立姿勢を打ち出す事となる。しかしその数年後に出雲の尼子経久による侵攻を前に政宗と政祐は和睦し、一度は播磨を追われながらも天文13年(1544年)までに幕府の支援を受けてこれを回復。その過程で政宗は赤松氏の筆頭宿老として再び家中で重きをなす一方、松田氏を始めとする備前西部の国人との縁戚関係を通じ、当地や播磨での勢力を強化し主家からの自立を図る素地を培いつつもあった。.

浦上 政宗

email: [email protected] - phone:(929) 473-2680 x 5693

転生 したら スライム だっ た 件 ラベル -

-> ドラクエ パソコン ゲーム 無料
-> 70 歳 はじめて の 男 独り暮らし

浦上 政宗 -


Sitemap 3

好き です 鈴木 くん 忍 -