オーストラリア 多 文化 主義

オーストラリア

Add: usixefu31 - Date: 2020-12-13 23:57:29 - Views: 6325 - Clicks: 209

オーストラリアを自転車旅行して理解できたことが一つある。オーストラリアは19世紀半ばに英国植民地として開拓され、さらに1901年英領オーストラリア連邦として成立したが、過去約150年のあいだ一貫して「移民政策」が国家運営の根幹であったことである。 今からわずか50数年前に中学校の地理の時間にオーストラリアは「白豪主義国家」であると習った。当時は実質的には英国及び欧州からの白人移民のみに門戸を開いていたのである。現在オーストラリアは「多文化共生により豊かな社会をつくる」という移民政策が国是となっている。自転車旅で知り合ったオージーは口を揃えて多文化主義・多文化共生社会を賛美していた。 外国から移民を受け入れて人口増加により経済成長を持続するという基本政策は不変であるが、どのような移民を受け入れるか(国籍・人種・職業・学歴等々)、どれだけの移民を受け入れるか(移民受入枠)は国際環境と国益を睨んで慎重に変更してきた。. 「ラーメンやチャーハンなどの中華料理」 3. オーストラリアの人口 増加の特徴を長期的に見ると、1980年代から、人口の自然増加数はほぼ一定であり、 人口増加の主な要因は純流入の増加となっている。 オーストラリアは移民の受け入れにあたり、多文化主義へのさまざまな取り組みの他、. かつてオーストラリアは白豪主義という白人優先主義をとっていましたが、現在では多文化主義に移行し、世界中からの移民を受け入れています。 ブラウザの設定画面で、JavaScriptをONにしてご利用ください。. 地理・歴史 -多民族・多文化国家- 1920年代には移住者のほとんどがアイルランド人かイギリス人で占められていました。 当時は第1次大戦が終わって多くの人々が安全な土地を求めてやって来ていましたが、1930年代になり世界的な不況が訪れると移民は事実. 少子高齢化、外国人労働者の採用、日本企業の海外進出、海外企業の日本企業買収など、日本を取り巻くさまざまな状況は、人々のグローバル化を余儀なくされる状況にきています。 グローバル化が急速に進むにつれ、コミュニケーションツールとなる英語力の向上には大きな関心が集まっています。しかし、真にグローバルな環境下で働く人々は、グローバル社会を生き抜くために必要な力は、語学力だけではないといいます。求められる力は、「コミュニケーション力」「チャレンジ精神」「主体性」「柔軟性」などさまざまですが、なかでも「異文化理解力」の必要性は、多くの方が唱えています。 理由は、文化や習慣の違いを理解しなければ共に生活する、ましては仕事を共にするとなると大きな支障が生じるためです。 例えば、皆さんは、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化という言葉をご存知でしょうか。コミュニケーションの取り方に関する言葉です。 年の流行語に「忖度」という言葉が選ばれました。簡単にいうと「空気をよむ」ということですが、これが、「ハイコンテクスト」。逆に言ったものが全て、額面どおり受け取ってほしいというのが「ローコンテクスト」です。すでにおわかりかと思いますが、日本は、誰もが知るハイコンテクスト文化で、「出る杭は打たれる」などということわざにもあるように、ローコンテクストなコミュニケーションの取り方をすると異端児扱いされたり、煙たがられたりしがちです。対して、オーストラリアは、アメリカやカナダ、イギリスなどと同様、ローコンテクスト文化です。さまざまな文化が混在し、同じ物事に対しても捉え方が十人十色な多文化多民族国家のため、意見や考えははっきりと示さないといらぬ誤解を生むことがあります。したがって「良いコミュニケーション=シンプルで明確なもの」という定義が成り立ち、メッセージは額面通りに伝え、額面通りに受け取るというのが前提とされます。 ただ、これだけ見ると、オーストラリアでなくても多種多様な人種や国籍が混在する国、例えばアメリカやイギリスでも異文化理解力を身に付けることができるのでは?となるかと思います。もちろん、アメリカやイギリスでも、日本国内にいるよりは異文化に対する理解を深める機会はあるでしょう。しかし、本当の意味で異文化理解力を習得するには、「多文化主義」を採用している国でなければならなり. 広大なオーストラリアは、国全体にヨーロッパやアジアなど、様々な文化が広っています。1970年代に白豪主義を止めたオーストラリアは、世界に先駆けて多文化主義の国になりました。そのため、幼児教育からグローバルな環境で過ごすことができます。この記事では、就学前の教育に焦点を.

そのひとり、ケイコ・ホームズさんはオーストラリアのブリスベン出身で、母親が日本人ということから小さい時に日本の学校にも通っていたそうです。 「Aussieは見た ~多文化共生の歴史~」と題してオーストラリアの多文化主義. See full list on kokugoryokuup. 多文化主義移民政策への移行と非英国系移民の受け入れ 1950年頃から労働力不足を補うために英国以外の欧州各国からの移民受入を増やしていった。. 臨時国会の政策論争の焦点は外国人労働者受け入れ拡大に関する入管法改正のようだが、どうも遅きに失した感があるように思われてならない。世界各地をバックパッカーとして歩いていると日本の法制度が現実に追い付いていないのではないかと痛感することが多々ある。 労働力不足を補完するために外国人労働者を受け入れる制度を法制化するのが焦眉の急であることは当然であるが、与野党ともに将来の日本の少子高齢化、人口減少を見据えた「移民政策の是非」について真正面からの国会討論を避けており隔靴掻痒の感を覚えるが如何であろうか。. 「文化なんだから、いいでしょ?」 このような感じですね。 例えば、一つの民族の間に、 「いけにえ」の文化があったとします。 「いけにえ」とは、 「生きた動物を殺して神様に捧げる儀式」のことです。 とても残虐な風習ですよね。 しかし、 「多文化主義」の考えだと、 このような風習も認めなくてはいけません。 もしも自国内に 「いけにえ」を美化する移民が入ってきたら、 その考えを共有しないといけないのです。 2つ目は、 「価値観の衝突」です。 「文化を共存させる」ということは、 リスクをともなう場合があります。 例えば、 「キリスト教」と「ユダヤ教」は、 比較的価値観が近い宗教だと言えます。 なぜなら、 同じ一つの神様を信じている宗教だからです。 一方で、 「キリスト教」と「仏教」は、 全く正反対の考え方です。 「キリスト教」は、 「世界に神様は一人しかいない」という考えです。 一方で、「仏教」は、 「全てのモノに神様が宿る」という考えです。 もしも、それぞれの宗教を信じる人が、 一緒に生活することになったらどうでしょうか? うまくいくイメージがわきませんよね。 最近の例だと、 ヨーロッパでは多くの人種を 労働者として受け入れました。 その結果、イスラム教徒が多数移住し、 国内にもう一つの国があるような 状態になってしまったのです。 当然、考えが違う人同士が集まれば、 紛争などは起きやすくなります。 このように、「多文化主義」とは、 文化同士を衝突させる可能性があるわけです。. オーストラリア 多 文化 主義 See full list on wedge.

この時代、英国植民地として「人種的に均質な英国社会」(racially homogeneous British society)を建設することが移民政策の根本的優先課題(firmly rooted preference)であったとの解説。時の植民地社会では「英語も話せず英国的道徳・価値観を持たないベネト出身イタリア人という異質な闖入者の上陸を拒否すべき」という意見が圧倒的であったという。 これに対して自治植民地のリーダーは熟考の末「条件付き植民許可」を提案して漂着した凡そ200人のベネト出身者に条件遵守を誓約させた。その条件とは、英語の習得、英国市民社会のルール順守、大英帝国への忠誠であった。このため漂着者には一定期間英国出身植民者の下で働くことを義務付けた。 その後、現在のニューイタリー地域への自由植民を許可された。漂着してから33年後に勃発した第一次世界大戦にはニューイタリーの大半の若者は志願兵として欧州戦線に赴き大英帝国への忠誠心を表明した。戦死した十数人のイタリア系若者の写真が飾られていた。 このニューイタリーのエピソードからオーストラリアの移民政策で1960年代まで連綿と受け継がれた確固とした英国市民優先主義の背景がみえてきた。. 多文化主義は1970年代にカナダ、オーストラリアで政策に取り入れられ始め、その後、イギリスやスウェーデン、フランス、アメリカなどでも程度の差はあるものの、多文化主義の考え方が導入されるようになった 。. 1851年にNSWのバサーストで金鉱脈が発見されたのをきっかけに、オーストラリアはゴールド・ラッシュの時代を迎える。金に魅せられた大量の移民が流入し、1850年代初頭に40万人だった人口が、わずか10年で115万人まで急増した。 ヴィクトリア州のバララットでも同時期に金鉱脈が発見された。人口と富が増加し、メルボルンは短期間に一大都市へと発展してゆく。同時に治安も悪化し、金をめぐってのトラブルも増加した。 1854年、バララットでオーストラリア史上最大の武装蜂起、ユーレカ砦の反乱が勃発する。鉱夫たちの資本家や官憲による搾取への不満が爆発し、30名余の死者を出す惨事となった。しかし以降、採掘税が廃止され、参政権も得られるようになる。 ゴールド・ラッシュによる人口増加は非ヨーロッパ系移民、とくに中国人労働者の排斥運動へと発展する。安価な労働力は白人の失業問題を生み、社会的脅威となっていた。各植民地で移民制限の会議が行なわれ、白人優位の白豪主義へと世論は高まってゆく。. オーストラリアでは300以上の言語が話されていますが、公用語は英語です。 オーストラリアの英語はもともと入植者であったイギリス人が使っていた言語ですから、イギリス英語の影響を強く受けていますが、オース. 年制定「コミュニティ関係委員会及び多文化主義の原則に関する法律」 第3条 多⽂化主義の原則 ・ 多様であることや多様なコミュニティーをありのまま継続することを受け入れる ・ 法によって統治される共有的価値の重要性を認める. それが「多文化主義」。1973年に正式にWhite Australia Policy が廃止されたが、その2年後の1975年オーストラリア首相と野党党首が超党派で「多文化主義(Multiculturalism) 」 が与野党問わずオーストラリアの主要な政治の優先事項であると合意し、宣言する。.

研究成果概要: 多文化社会における現代オーストラリアの表現について分析を行った。その際、三つの柱を設定した。. 多文化主義は、世界的トレンドとしては1970年代 には、カナダ、オーストラリア、スウェーデンなどで多文化主義政策がとられたことで、マイノリティの政治的関心は世界的に浮上することになったが、ポスト 911の時代(年9月11日以降)になると、多文化. オーストラリア大陸に、アボリジナルの祖先が住むようになったのは約5万年前の第4氷河期の中頃といわれている。現在よりも海面が120mほど低かったこの時期に、アジア系の祖先がスンダランドから狭い陸伝いに、サフルランド(オーストラリアとニュージーランドが地続きだった大陸)へと移動してきた。 2万年ほど前に解氷期が始まると海面が上昇、大陸間の移動が困難となる。オーストラリアは孤立し、1万年ほど前に世界的に広まった農耕文化も伝わらず、隔絶の大陸となった。 アボリジナルは数千年にわたり、狩猟・採集による生活を続けていた。最盛期には全土に25万〜30万人が暮らしていたといわれている。 オーストラリアの存在が知られるようになるのは、15世紀以降のことだ。パプア系の住民アイランダーズが北部のケープ・ヨークを訪れて以降、インドネシア人、中国人とも交易が行なわれるようになった。. 19世紀後半に、社会的脅威となっていたアジア系労働者への反発が、世論を白豪社会の実現へと向かわせた。植民地同士の関税制度、移民問題、そして防衛上などの観点から、植民地6州を統合したオーストラリア連邦政府の樹立が模索されるようになる。1895年に6州による連邦成立のための憲法草案が作成され、各植民地で住民投票にかけられたあとイギリス議会で法制化された。 1901年に正式にオーストラリア連邦が成立し、メルボルンに暫定首都が置かれて憲法が発効された。アジア系移民の流入を合法的に制限する移住制限法を制定、アジア系移民希望者にヨーロッパの言語での入国テストを課し、ほぼ全員が不合格となるシステムを導入する。白豪社会は体現され、人口の大半をイギリス系移民と子孫が占めるようになった。 1926年にイギリスから自治権が認められ、翌年キャンベラに首都を移転する。. (4) 白豪主義の終焉と多文化社会化を促したもの すでに見てきたような、戦後オーストラリアの移民政策の変化を迫った要因について、今少し具体的に見ておきたい。. 11月23日。ゴールドコーストを目指してパシフィックハイウェイを北上していた。ハイウェイとはいえこの付近では大型車がやっと対面通行できる田舎の公道である。小さな村落に「ニュー・イタリー・ミュージアム」と看板が出ていた。 無料なので休憩がてら見物。村の歴史が展示されていた。このニューイタリー村はイタリア東北部のベネト地方出身の約200人の移民により1881から開拓が始まったとのこと。展示説明によると、ベネト地方はベネチアの後背地に位置して独自の文化・言語を持っていた。ところが1861年にイタリア王国が成立し、1866年にベネチアがイタリアに併合されると、ベネト地方はイタリア王国の支配下となり政治的自由を失い重税に苦しむこととなった。 困窮した一部の人々は自由を求めて南太平洋の新天地、ヌーベル・フランスを目指すことになった。最終的に数百人が家族単位で移民船に乗り込んだ。しかし稀代のペテン師が募集した移民計画は杜撰そのもの。現在のニューギニア辺りで植民計画に実態がないことが判明。その後、食糧不足による飢餓と疫病さらには嵐に遭遇。最終的に当時英国植民地であったオーストラリアのニューサウスウェールズに漂着したのは約200人であった。. 「ハンバーグやステーキなどの肉料理」 2. 各国から移民を受け入れ、様々な文化を尊重する「多文化主義」を掲げてきたオーストラリアが転機を迎えている。移民増加などを背景に中国の.

「多文化主義」には、 どんなメリットがあるでしょうか? 大まかに2つに分けて解説したいと思います。 1つ目は、 「文化の対等性」です。 「多文化主義」が生まれる前は、 「文化」には対等性がありませんでした。 わかりやすい例として、 ヨーロッパの国々が行った 「植民地主義」があります。 「植民地主義」とは、 「他国の領土をどんどん支配していこう」 という考えのことです。 オーストラリア 多 文化 主義 実際に「植民地主義」により、 15世紀~20世紀頃のアジアやアフリカは、 多くの土地を支配されてしまいました。 当時の主流としては、 「少数民族は、支配的民族に同化すべき」 という考えでした。 しかし、 この考え方だと、少数民族の文化は 全く尊重されていないことになります。 こうした流れで出てきた考えが、 「多文化主義」だったのです。 「多文化主義」は、 文化の価値を平等視します。 したがって、 「全ての文化を対等にみなす」 というメリットがあるのです。 2つ目は、 「文化の多様性」です。 「多文化主義」は、 一つの国に様々な文化が共存しています。 言いかえれば、 「それぞれの文化の恩恵を受けられる」 ということです。 身近な例で言うと、 「食文化」が挙げられるでしょう。 私たちの身の回りには、 さまざまな食文化があります。 1. 一方で、 「多文化主義」にも問題点はあります。 1つ目は、 「価値観の強制」です。 この問題点は、 「文化相対主義」の内容とも似ています。 「文化相対主義」については、 以下の記事を参照してください。 >>文化相対主義とは?具体例や問題点を解説 「多文化主義」は、 個々の文化の価値を平等視する考えでした。 「価値を平等に考える」 ということは、逆に言うと 「すべての文化を相手に認めてもらう」ということです。 イメージ的には、 1. 他方,一見カナダの多文化主義にうながされるよ うにして展開したオーストラリアの多文化主義は (ウイツトラム政権の多文化主義の提案は1973年), オーストラリア 多 文化 主義 アングロ・ケルト系住民の圧倒的な優位のなかで, マジョリテイの内部における自らの選択という形を とる。. 教えてください!オーストラリアの多文化主義にはどのような問題点があるのでしょうか? 昨年「オーストラリアは多文化主義で差別が少なく、旅行にはいい」という理由でシドニーを訪れたのですが、多文化主義国家としての問題点. 「文化なんだから、何でも認めて!」 オーストラリア 多 文化 主義 2.

多文化主義と国家統合 〈多文化主義〉が登場したのは,1970年代以降のカナダ,オーストラリアである。カナダは,ケベック州や西部諸州の問題に直面するなかで〈二言語・多文化主義〉〈多文化主義〉を打ち出した。. 様々な文化と民族が集まる多民族国家のオーストラリアは戦後、海外からの移民を積極的に受け入れ、住居者の4人に1人が移民という比率が政府の統計で出ています。その民族数は500を超えていてオーストラリアは世界の中で8番目に移民族が暮らす多様社会の国です。元々イギリスの植民地だっ. 多文化主義へのバックラッシュは、アメリカとオーストラリアだけではありません。 単一民族として規定する傾向にある日本のような国々、さらにはフランス、イギリスなど多様化した社会と文化のあり方を認めてきた国々でも起きています。. 多文化主義政策 人口の約4分の1が外国で生まれた国民により構成されるオーストラリア。 1901年の連邦国家結成以来、非白色人種の移住を制限する白豪主義政策などを経験しながら、現. 本編第2回(年9月13日)にて紹介したように第2次世界大戦終了後人口700万人程度であったオーストラリアは広大な国土の国防及び経済発展のために積極的移民政策を策定した。そして約70年かけて今年8月に人口2500万人を達成した。 1981年には約1500万人、年に約万人と着々と増加。オーストラリアの合計特殊出生率は2. 州多文化主義政策交流プログラム」を毎年実施してきている。 本編は、オーストラリア全土の地方自治体における多文化主義政策の実践例につい て、全豪地方自治研究センター(acelg)がまとめた豪州内の地方自治体職員向けレ ポートを紹介するものである。.

多文化主義を標榜するオーストラリアはこれまで多くの国や地域から移民を受 け入れており、先住民であるアボリジニやトレス海峡島嶼民(以下、「先住民」). 目的 「オーストラリア多文化主義」は、1973年当時のウィットラム連邦労働党政権のオル・グラスビー移民大臣により示唆され、その後フレイザー連邦自由党・地方党連合政権が1978年のガルバリー報告書の勧告に基づいて本格的に導入したものである。. いかがでしょうか。 異文化理解力を学ぶ上で非常に魅力的な環境であるオーストラリア。特に就職直前の、「海外 大学進学」や、日本の大学在学中1年間休学しての留学「海外ビジネスインターン留学」「休学留学」する国としておすすめです。 多文化多国籍なオーストラリアには、中華街はもちろん、イタリアやギリシャから来た移民の方々を中心に築き上げられたカフェ街など、世界中の食文化、音楽、イベントなどが存在し、一つの国で世界を知ることのできる環境があります。あなたもぜひ、オーストラリアへ世界を見に留学しませんか。 ← オーストラリア留学のメリットとデメリットのページへ戻る.

オーストラリアにおける多文化主義に基づく授業実践 ―価値教育の観点からの考察― 長 濱 博 文 九州女子大学人間科学部人間発達学科人間基礎学専攻 北九州市八幡西区自由ヶ丘1-1(〒807-8586) (年5月31日受付、年7月15日受理) 要 約. まずは、 「多文化主義」の意味です。 「多文化主義」とは、 「一つの国家や社会の中で、異なる文化の共存を 積極的に進めようとする考え方」です。 簡単に言うと、 「一つの国で色んな文化を認めよう!」 という考えですね。 元々この言葉は、1970年以降の 「カナダ」や「オーストラリア」で 誕生したと言われています。 今では、 「カナダ」や「オーストラリア」は、 一つの国として独立していますよね? ところが、 昔は「イギリス」に支配されていた という歴史があります。 そのため、 現在でも原住民や白人の子孫など、 複数の民族・言語・文化が入り混じっているのです。 このような国では、 お互いの文化を共存する政策を行っています。 例えば、 「学校教育で、複数の言語を教える」 ようなことです。 普通の国であれば、 「母国語」を中心に言語を学ぶと思います。 日本で言えば、義務教育で教えるのは せいぜい「日本語」と「英語」くらいですよね。 しかし、 多文化主義の国では、 複数の言語を文化として持っています。 そのため、多種多様な言語を 子供に教えているわけですね。 このように、「多文化主義」とは、 自国内で複数の文化を共存させ、 お互いを認め合う考えのことを言うのです。. 1776年、アメリカ独立戦争に敗北したイギリスは、アメリカに代わる植民地を探していた。オーストラリアは有望な代替地とされ、1788年1月18日に初代総督となるアーサー・フィリップが囚人と軍人、その家族を率いてシドニー・コーヴへ上陸する。同26日にイギリス国旗を掲げてイギリスの植民地としての歴史が始まった。 入植当初は厳しい自然環境から植民地としての整備は難航したが、流刑者に開墾地を与えてから植民地経営は上向き、19世紀にはタスマニアの領有も宣言。自由移民も多く入植するようになり、都市は発展する。1847年にはイギリスからの流刑制が廃止となり、各州に自治権が与えられ、植民地として成熟をみせてゆく。. オーストラリアで行われた白豪主義は南アフリカのアパルトヘイトとともに代表される人種差別の法律でした。 しかし、第二次世界大戦後の大量の移民によるオーストラリアの多文化社会化が白豪主義の撤廃への背景にありました。.

オーストラリア多文化主義政策の変遷 ―85 ― である。さらに,オーストラリアが,多文化国 家として発展する段階にあること,および移民 が文化的・人種的アイデンティティを維持する 権利を有し,移民が望むのであれば,その権利. See full list on world-avenue. オーストラリア 多 文化 主義 オーストラリアは「多文化主義国」 現在オーストラリアは、人口の約半数近くが海外生まれと言う、世界でも稀にみる移民国家と言われています。 国籍はもちろんのこと、言語や文化、宗教の異なる人たちが多く集まって暮らしています。.

「ピザやパスタなどのイタリアン」 オーストラリア 多 文化 主義 どれも元々日本にはなかった食文化です。 最近では、 オーストラリア 多 文化 主義 日本の寿司料理なども 海外で好まれているようですね。 もしも、 これらの食文化がなければ、 毎日の生活は味気ないものとなってしまうでしょう。 つまり、 「多文化主義」があるからこそ、 現在の私たちの文化が成り立っている とも言えるわけですね。. 多文化主義が多民族から成立するオーストラリアの国家的なアイデンティティであること を理解させようとしている。「多文化主義とは何か」を理解させるのに,た とえば,「メル. いかがだったでしょうか? 今回の内容をまとめると、 「多文化主義」=一つの国家や社会の中で、異なる文化の共存を積極的に進めようとする考え方。 【メリット】⇒「文化の対等性・多様性」 【問題点】⇒「価値観の強制・衝突」 ということでしたね。 「多文化主義」には、 良い面・悪い面の両方があります。 したがって、 「どちらが良いか?」という疑問には、 「正解がない」とも言えるでしょう。 今回は以上となります!. See full list on mapple. 第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て大幅な人口減という深刻な社会問題を抱えたオーストラリアは、国防や経済成長など、さまざまな点において、人口増加が必須と判断し、アジア、東欧、中東、南欧などから積極的に移民を受け入れるようになりました。 もともとロケーション上、アジア諸国との経済関係に利があったことや、鉱物資源が豊富だったこと、気候が良いことなども助け、積極的な移民政策のもと戦後700万人だった人口数が1959年には1,000万人をこえました。結果、オーストラリアは、それまでの白豪主義に終止符を打ち、アジア圏との経済関係を拡充、大きな経済発展を遂げたと言われています。その後も、インドシナ難民を受け入れるなど、アジア系社会を包括する多文化多民族国家へと成長していきました。 その後、過去には目を背けたくなるような差別や殺戮のあった先住民族 アボリジニに対する差別的な法も撤廃され、イギリス、ギリシャ、イタリアなどを中心とするヨーロッパ諸国の文化、経済面でも強い結びつきを持つアジア諸国の文化、そして先住民族アボリジニの文化など、多種多様な文化が融合し、現在は世界200ヵ国以上の移民が暮らす多文化主義を代表する国にまでなりました。. 大航海時代、ヨーロッパの大国はアジアとの交易拠点や植民地を探していた。1606年、オランダ人ヤンスがヨーク岬に到着、同年スペイン人の探検家トレスもニュージーランドとの海峡を通過したが、香辛料や黄金のない土地に関心を示すことはなかった。 1770年、タヒチでの天体観測と新大陸の探検を命じられたイギリス海軍のジェームズ・クックがエンデバー号でシドニー郊外のボタニー湾に上陸する。一帯を調査したあとに入植地になると判断、イギリス領有を宣言し「ニュー・サウス・ウェールズ(NSW)」と名付けた。.

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